昭和41年10月10日  朝の御理解
                       末永静行(№41-113-B-1)



信心は、親に孝行するも同じ事である、信心は親に孝行するも同じ、親孝行をするのに、人見せの親孝行はありえません、親孝行をするのにうわべだけ、親孝行と言うのはやはり心からのもの、信心は親に孝行するも同じ事であると仰るが、私共の信心が果たして親孝行と同じような気持ちで信心が続けられておるだろうか、口ばっかり、形ばっかり、親孝行と言うのは、いわば、まじめさがない、真実味がない、やっぱ信心にならないという事になりますね。
信心は親に孝行も同じ事、ね、親孝行と言うのは心から親に喜んで頂く事が親孝行です、親孝行と言うのは心から親が喜ぶ、その喜びをもって自分の喜びとする、ね、心から親が喜んでくれる、その心と心が喜んでくれる喜びがそのまま自分の喜びである、親孝行とはそんなものだと思うんですよね。ごまかしがあってはならん、信心も親に孝行、信心は親に孝行するも同じ事です。素晴らしいと思うんですねそう言う、私共の、信心、信心と言うけれども、そう言う気持ちで信心させもてもらう。
信心は親に孝行するも同じ事だと言うような信心が分かりませんとね、いろいろ、おかげの頂けれる、いわゆる、お詫びの喜びを自分の喜びとするような信心の喜びと言うものが得られません。
皆さん天ぷら屋のおいでられた事があるでしょうか。天ぷら、天ぷら屋で何が一番おいしいか、それはなんといってもやっぱり海老が一番にあげますですね、海老天、まあこれが天ぷらでは最高のものと思わされております。信心もやはりそんな感じが致しますですね、皆さん、海老のお知らせはご承知でしょう、ね、尊い修行、尊い苦労なのです、大変、やはり窮屈な修行なのだの時に海老を頂きます。それに天ぷら、いわゆる、メリケン粉と卵が適当にまじ合わせられて、それがころもになっておる、それを油で揚げたのが天ぷら、それを頂く時には天つゆという、これは特別のダシを取りましてから、濃いのつゆで頂くのが、まあ、常識ですね。
信心は親に孝行するも同じ事ぞやというふうに、親の為にはやはり親の心が分からなければできません、親はどうある事をです、求めておるだろうかと、親はどうある事を一番喜ぶだろうかと、いわゆる、親の心が分からなければ親孝行は出来ません、ね、そう言う意味でやはり神の心を分からなければ神様の心が分からなければ本当な信心は出来ません、ね、神様の心が分かってまいりますと、それこそ、海老のような修行も、ね、苦労と感じません、親の心を分かりました、ね、本当に神様がこう言うようにして私を育ててくださるんだと、こう言うようにしていよいよ私をおかげを下さろうとする働きがあっておるんだという事が分かってまいります。神様の心が分かりますと、そこに苦労を苦労を感じんおかげ、ね。
皆さん、私の御理解はあまりにもかんで含めるように、しかも、繰り返し繰り返し言うから、皆さんがあんまり喜ばれませんですね、くどい訳です、けれども私はどうかして分かってもらいたい、分かってもらいたいと思うのですから(      )繰り返し繰り返し、まあ、いう訳なんですけれども、まあ、今日の御理解を皆さん頂いてくださって、日頃頂いておられる御教えから、今日先生が信心は親に孝行するも同じ事だなと、これは教祖の御教え、その教祖の御教えが、果たして私共が親に孝行するような心持で信心がでけておるだろうか、でけておるようにあって、難儀を難儀と感じておるならばそれは受け取らんという事に私は思う。
困るという事は神様が喜んでくださるなら、こういう事を私に求めておられるなら、それに答えて正してもらおうと言う意欲があるならば、あなたの信心がだんだん親に孝行するも同じ事ぞやと仰る信心が身についていきよるという事がいえます。ね。
天ぷらの中身の海老の信心が私共がでけた、ころもは神様がつけて下さるような感じ、天つゆは自ずとこう恵まれる、ね、どんなにし折れておる花でも、一つ打たせるとしゃんと生き生きとしてくる、ね、大勢の子供を育つのに、前の日にとってある奴が、もうぐしゃっとなっておる、けれども、それにちょっと水を持って外に出しときますとつゆが取りますから、しゃんとなるでしょうが、まあ、天つゆと言うのはそう言う感じなんです。ね。
人間の幸せと言うのは衣食住に恵まれるという事、ね、その人間の幸せの全部が頂かれる感じ、ね、天ぷら海老が一番おいしいといわれておる、信心させて頂いて一番おいしいと言うか、一番有り難いと言うか、有り難いおかげは、やはり天ぷら的な、海老天的なおかげなんです、そう言うおかげを頂くためにはどうでも私共はね、親に孝行するも同じことぞやと、信心はもうここなんだと、為に親に心を分かりたい、ね、神様の思いが、深い思いが分かりたい、その神様の思いに沿わせて頂くということは親の喜びであり、その親の喜びを自分の喜びとしてと言う生き生きとした喜びが心の中に躍動しておりませんとでですね、やはり、難儀は難儀であります。難儀から逃れたい、逃れたいということだけしかありません、ところが、そこんところが分かってまいりますと、その事がです、ね、いよいよ有り難い物として、尊い物として頂くことが出来る、いわゆる、神の喜びがある、その喜びが徳にならんはずがない、ね、海老の天ぷらが天ぷらが一番おいしいと言われるような、信心させて頂いて一番素晴らしい、それこそ、夢に思わなかったおかげというのはです、そう言う信心修行が有り難く成されて、初めて頂けれると私は思うのです。
皆さんどうぞ、御理解をです、それぞれによーく味わってみてください。今日の私がお知らせを頂いたのはです、ね、神様がちょうど海老天の海老の天ぷらのようなおかげ、最高のおかげ、最高においしい、最高に味わいのある信心を身につけてくれとこう言うておるような感じが致しました。
そこで、私は、そう言うおかげを頂くためにはまずどういう事を分からなければならんという事を考えております、それには信心は親に孝行をするも同じ事ぞやと言うここんところが分からなければそう言う最高のおかげはいただけないことは感じたんです。
そこんところに皆さんの思いがおかれての信心の稽古がなされておるかどうか、ごまかしなどはせんかと、うわべだけの親孝行じゃないか、ね、真からの物、心からの物、いや、親の喜びをそのまま自分の喜びとしていただけておるかどうか、いろいろ一つ検討して御覧なさい。
      どうぞ。